好きな飲み物は水です。

もう仕事は探していないんだけどさ。

原研哉&阿部雅世 対談『なぜデザインなのか。』を読んで

南イタリアから来たという、鼻ピアスしているような十八歳の男の子の話ですが、外で買ってきたでき合いのピザをミラノの下宿先の家の食卓で食べるのに、「あのー、テーブルクロスはどこにありますか?」って訊いてる。そんなものを食べるのでも、ちゃんとテーブルクロスを敷くんです。母親手づくりの瓶詰めトマトソースで和えただけ、というシンプルなパスタをつくってくれた男子学生も、パスタを茹でながら、ひょいとお皿をオーブンに入れて温める。「ジュゼッペ!冷たい皿に、温かい料理を盛りつけるなんてあり得ないよ!」というイタリアンママンの声が、もう故郷から聞こえてくるようで(笑)

この話好きなんだけど、日本人だとこれはどういうエピソードになるだろうか?
家に入る時は靴を脱ぐとか? 初めて泊まりで友だちの家にお邪魔するときはなにか手土産を持って行きなさいとか? なんか違う気もする。

これは、ヨーロッパの人々は生活哲学が親とまったく同じで、まぁ宗教による縛りが大きいのかもしれないけれど、という話題の中で出てきたエピソード。

日本人は、親の代の生活哲学とはまるで違う生活をしている。おじいちゃんの代、お父さんの代、自分の代で生活が大きく変わっているはず。僕は親から生活哲学を受け継いでいる? それを子どもに伝えられる? そんなことを考えさせられる。

先代の日本人たちが積み上げてきた歴史、文化というものがどれだけ価値のあるものかということを認識せねば。

他の好きなエピソードだったり覚えておきたいエピソード。

ヨーロッパの人はよく、家族の写真を財布に入れて持っていますでしょう。ずいぶん家族思いなんだなぁ、と思って感心していましたら、ある時、「だってこれがなかったら、何かあったとき、何を手がかりに家族を探すんです?」と言うんです。

こういうのが日本にいるだけじゃ分からない話かも。海外の話を聞いた時に、あくまで自分の感覚で物事を捉えて考えてしまうことが多いけれど、育ってきた環境が違うとそもそもの”前提”が違ったりするのだ。2000年あたりまでユーゴスラビアの紛争は続いていたし。

世界的に見たら、水を撒かなくてもこれだけ緑が生えてくるというのは、石油に匹敵するくらいの財産なんですけれど、そこに気付かずに、岩肌丸出しの国から高い値段で大理石を買って、それを玄関とかトイレ周りにだけ貼っている(笑)

日本での当たり前が、世界の当たり前ではない。

日本の事情をよく知らないヨーロッパ人が日本を見るとわからないわけです。あんなに歴史と文化財産のある長老国日本が、なんでアメリカみたいな若造 を崇拝し、真似して踊っているのか。なぜあんなチープなアメリカンハウスにあこがれるのか。なぜあの歴史の蓄積されていた親の家を修復、復元しないのか。 でも日本では、新しいものを取り入れると一気にいろんなことが刷新されてしまう。生活だって少々混乱しているとはいえ、あっという間に適応してしまった。 もう完全な復元は不可能ですよね。でもそろそろ、とっかえひっかえ新しいものを置き換えて過ごすような生活ではなく、地中に深く根を下ろした植物の、接木の先に生まれてくる鮮やかな新芽のような、そういう生活をつくることを真剣に考える時期ではないでしょうか。

アメリカンハウスに憧れを持つことになんの疑問も持たずに生きている世代だな僕らは。積み上げてきた歴史の重要性、文化の価値を教わっていないからなのか。世代間の文化哲学が受け継がれずに失われるというのは、恐ろしいことだ。

なぜデザインなのか。

なぜデザインなのか。